「月と六ペンス」(モーム)

嫌悪しながらも強力な磁場に引き寄せられる

「月と六ペンス」(モーム/土屋政雄訳)
 光文社古典新訳文庫

失踪したストリックランド氏の
捜索を夫人から頼まれた「私」は
パリへと渡る。
安いホテルに滞在し、
その日暮らしをしていた氏は、
決して駆け落ちなど
したのではなかった。
妻子を捨て安定した生活を捨て、
氏が得ようとしたものは…。

何度目かの再読でしたが、
400頁を一気に読ませるだけの
大きなエネルギーを持った小説です。
受ける衝撃の大きさは
再読を重ねるごとに大きくなりこそすれ
いささかも減じることがありません。
本作品の魅力はもちろん、
主人公・ストリックランドの人物像の
特異性にあります。

ストリックランドの特異性①
異なる価値感覚

ストリックランドが妻子を捨て、
株式仲買人という社会的地位と
安定した生活を捨て、
パリへ渡ったのは、
絵を描くためでした。
四十歳を過ぎてすべてを捨てて
再出発をするのは、
常識のある人間のすることでは
およそないでしょう。
事業であればともかく、
芸術の世界など、
成功する見通しはないのですから。

それを問いかけた「私」に、
ストリックランドは答えます。
「危険な賭けではありませんか」
「自分でもどうしようもないんだ。
 水に落ちたら、
 泳ぎがうまかろうがまずかろうが
 関係ない。
 とにかく這い上がらねば溺れる」

ストリックランドの特異性②
究極的自己中心

その五年後、
病に冒され生死をさまよっていた
ストリックランド。
その危機を救った
画家仲間・ストルーブの妻・ブランチを
彼は奪い、そして捨ててしまいます。
彼女は自ら命を絶ちます。
彼にとって自分以外の人間が
どうなろうと関係ないのです。

「私」はまたもや彼を糾弾します。
「ブランチは心から
 あなたを愛していた」
「女ってのは、滑稽なほど愛を
 大きなものだと思い込んでいる。
 肉欲ならわかる。
 それは正常で、健康的だ」
「生きる時代を間違えましたね」
「たまたま完全に正常な人間に
 生まれついたってだけの話だ」

ストリックランドの特異性③
恐れを知らぬ魂

タヒチに移ってからの
ストリックランドは、
自分の信じる芸術に
突き進んでいくのです。
命の危険が迫っても人を恐れず、
ハンセン病を患っても病を恐れず、
以前にも増して
人の道に外れようとも神をも恐れず、
強靱な意志で描き続けるのです。

彼の死後、取材を重ねた「私」は、
結論に達します。
「ストリックランドは最後まで
 ストリックランドだったわけだ」

非人間的な行為の数々なのですが、
彼は悪党なのではありません。
彼の意識は自分の芸術を
完成させるというただ一点にのみ
向かっていて、
他のことには全く価値を
見いだしていないだけなのでしょう。
作品から彼の台詞をたどっていけば、
極めて純粋な魂が姿を現してきます。

しかし、純粋な自然が得てして
凶暴で非情で残忍であるがごとく、
純粋な人間の魂もまた、
凶暴で非情で残忍なものに
ならざるを得ないのでしょう。

ヒトという動物は、
社会的生活を営む術を得て、
生物の頂点に君臨しましたが、
その過程の中で、
多くのものを捨象してきました。
それらをすべて持ち合わせていたのが
ストリックランドだったのでは
ないでしょうか。

読み手が嫌悪しながらも
強力な磁場に引き寄せられるようにして
彼の特異な人物像に
魅せられてしまうのは、
そこに自分の持ち得なかったものを
見てしまうからなのかも知れません。

ストリックランドのモデルは
画家のゴーギャンであると
言われていますが、
絵画に精通していない者にとっては
どうでもいいことです。
むしろ美術史を知らない方が、
ストイックランドの人間像に
極限まで迫れるのではないかと
思います。
読書の秋に読むべき一冊です。

(2020.10.2)

Free PhotosによるPixabayからの画像

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